目指すべきモジュール型国家について(笑)。
年金の賦課制度について銭湯でボケーっと考えている内に、「日本という国はモジュール化が必要だ」、という洞察に至った。
「モジュール」という語は多義だが、情報システムの文脈では、「一つの単位として存立しうる、機能や役割のまとまり」という程度の意味合いで使う。モジュール構造を語る上で、かつてよく引き合いに出されたのは、LinuxというOSのアーキテクチャだ。WindowsというOSがモノリシック(大きな一枚岩)で各々の部分が不可分な構造を持っているのに対し、Linuxは小さなモジュールが多数集まって互いに手を結んだような構造として模式化される。
モジュール構造の美点は、もし一部で不具合が生じても当該部分のみを交換ないし修正すれば大勢に影響が無いという点だ。機能を改善したい場合でも同様に、一定範囲のみをアップグレードすればよい。逆に、機能がモジュール化されていないモノリシックな構造の場合、たとえ一部で生じた不具合でも全体を総入れ替えせねばならない。モジュール構造が変化に対して柔軟に対応できるのに対し、モノリシックは変化に対して弱い、もしくは相当大掛かりな修正を加えなければいけなくなる。大雑把に言えば、モジュールは個々独立した存在であるのに対し、モノリシックな構造ではあらゆる部分がお互いに・全体に依存しあっていると言えるだろう。
モノリシックな構造にもメリットはある。全体がシームレスな塊のようなものだから、処理の効率が良い。機能と機能、部分と部分との間で仲立ちを考えなくても良い。インプットもアウトプットも種類・性質に変化が無く、量のみ増加させればよいという状況下では極めて効率的に働く。しかし、インプットとアウトプットの両方が変化し、なおかつ量が重要でなくなった場合には、むしろデメリットの方が顕在化する。
この例えを援用するなら、言うまでも無く日本は至るところでモノリシックな構造を持った国家である。冒頭の年金制度を例に挙げれば、高齢者の年金は若年世代の稼ぎ依存だ。ピラミッド型の人口構成を前提にした制度であるがゆえ、少子高齢化という変化に対応できず、破綻は目に見えている。企業の退職金でも同じこと。右肩上がりの成長を前提にした制度であるゆえ、ゼロ〜マイナス成長の時代にあっては退職引当金を取り崩すしかなく、支給額を減らさざるをえない。それぞれの世代が単一のモジュールとして存立することが、構造上不可能なのだ。
個人の生活も企業に依存していた。仕事場でできる関係が唯一の人間関係であり、自社の業務で得られるスキルがすなわち自分のスキルであり、福利厚生も全て会社持ちだった。高度成長で経済のパイが大きくなっている内は、企業がこれらの全てを提供しえた。しかし、経済が成熟し、モノが売れなくなり、なおかつグローバル化の波にさらされるようになった。給与は減り、福利厚生施設は減り、リストラが行われるようになり、転職市場では全く知らない人との競争にさらされざるを得なくなった。会社に依存したくても、依存のための原資が減り始めたのだ。
企業の内側では、仕事上の依存が続いている。日本組織には肩書きや部署名はあるが、職務分掌など無いに等しい。何につけても、できる人がいるならやってもらう。そしてどんどん押し付ける。挙句の果てには、当のできる人はパンクしてしまい、体を壊したり退職してしまう。後には何も残らない。そもそも責任が不分明だから、できなくなっても特定の人間がとがめられることもなく、逆に何かをやり遂げても相応の報酬があるわけでもない。終身雇用を前提とし、人に依存するが故の経営リスクである。ここでもやはり、企業とその構成要素たる人とが、それぞれモジュール化していない。
地方は国に依存してきた。地域の活性化は国からの交付金依存・公共事業依存だった。誰も見に来ない博物館を作り、一日に数台しか車の通らない豪勢な橋を作った。親方に依存するばかりか、自立するための手段に投資してこなかった。それゆえ、国全体が長期的不況に陥って税収が減り、地方の面倒なぞ見ていられなくなると、ただ右往左往して国に泣きすがるしかなくなる。
最近の例を挙げれば、サプライチェーンの崩壊という事象がある。小売は単線的で融通の利かないサプライチェーンに依存してきた。震災でそのチェーンが壊れれば、途端にモノの流れがストップする。硬直的であるがゆえに、代替・交換ができない。
このような国家体制では、一部のひび割れや不具合が全体に響く。どこかを直そうとすれば、結局全てを直さざるを得ないモノリシックな構造なのだ。
大局的に考えれば、このモノリシック構造を脱するにはモジュール化を進めるしかない。あらゆるレベル・分野において、構成要素が可能なかぎり単体のモジュールとして存立し、任意の相手と手をつなぎうる構造が必要なのだ。地方という単位でも、個人という単位でも、サプライチェーンという単位でも同じである。最終的に、国家とはモジュール群の階層構造としてとらえられるだろう。そして政府もまたコアをなすモジュール(Linuxでいえばカーネル)である。モノリシック国家との決定的な違いは、どの粒度で考えても、確固たる「個」が存在するという点である。しかしこの「個」は他の「個」と接続しうる無数の接続子を持っている。必要であれば、いつでも他の「個」とつながって、一回り大きなモジュールとして機能する。
この変化が最も早く表れるのは、恐らく個人のレベルであると思う。言うまでなく、単位が大きくなればなるほど、多様な利害関係が生じてモジュールの切り分けがしにくくなるからだ(実際、地方分権の議論などは十年以上前からあるが、一向に進む気配がない)。また、手段さえ開かれていれば、単位が小さいほど自立しやすくなる。個々のモジュールは小さいが、他のモジュールと接続することで、多機能化や柔軟な変化が可能になる。自立的であると同時に、他の個とつながりうること。世の中をどのレベルで捉えるにせよ、今後のサバイバルにはその二つが必要になってくると思う。
NH @ one of the modules (ready to be connected)
「モジュール」という語は多義だが、情報システムの文脈では、「一つの単位として存立しうる、機能や役割のまとまり」という程度の意味合いで使う。モジュール構造を語る上で、かつてよく引き合いに出されたのは、LinuxというOSのアーキテクチャだ。WindowsというOSがモノリシック(大きな一枚岩)で各々の部分が不可分な構造を持っているのに対し、Linuxは小さなモジュールが多数集まって互いに手を結んだような構造として模式化される。
モジュール構造の美点は、もし一部で不具合が生じても当該部分のみを交換ないし修正すれば大勢に影響が無いという点だ。機能を改善したい場合でも同様に、一定範囲のみをアップグレードすればよい。逆に、機能がモジュール化されていないモノリシックな構造の場合、たとえ一部で生じた不具合でも全体を総入れ替えせねばならない。モジュール構造が変化に対して柔軟に対応できるのに対し、モノリシックは変化に対して弱い、もしくは相当大掛かりな修正を加えなければいけなくなる。大雑把に言えば、モジュールは個々独立した存在であるのに対し、モノリシックな構造ではあらゆる部分がお互いに・全体に依存しあっていると言えるだろう。
モノリシックな構造にもメリットはある。全体がシームレスな塊のようなものだから、処理の効率が良い。機能と機能、部分と部分との間で仲立ちを考えなくても良い。インプットもアウトプットも種類・性質に変化が無く、量のみ増加させればよいという状況下では極めて効率的に働く。しかし、インプットとアウトプットの両方が変化し、なおかつ量が重要でなくなった場合には、むしろデメリットの方が顕在化する。
この例えを援用するなら、言うまでも無く日本は至るところでモノリシックな構造を持った国家である。冒頭の年金制度を例に挙げれば、高齢者の年金は若年世代の稼ぎ依存だ。ピラミッド型の人口構成を前提にした制度であるがゆえ、少子高齢化という変化に対応できず、破綻は目に見えている。企業の退職金でも同じこと。右肩上がりの成長を前提にした制度であるゆえ、ゼロ〜マイナス成長の時代にあっては退職引当金を取り崩すしかなく、支給額を減らさざるをえない。それぞれの世代が単一のモジュールとして存立することが、構造上不可能なのだ。
個人の生活も企業に依存していた。仕事場でできる関係が唯一の人間関係であり、自社の業務で得られるスキルがすなわち自分のスキルであり、福利厚生も全て会社持ちだった。高度成長で経済のパイが大きくなっている内は、企業がこれらの全てを提供しえた。しかし、経済が成熟し、モノが売れなくなり、なおかつグローバル化の波にさらされるようになった。給与は減り、福利厚生施設は減り、リストラが行われるようになり、転職市場では全く知らない人との競争にさらされざるを得なくなった。会社に依存したくても、依存のための原資が減り始めたのだ。
企業の内側では、仕事上の依存が続いている。日本組織には肩書きや部署名はあるが、職務分掌など無いに等しい。何につけても、できる人がいるならやってもらう。そしてどんどん押し付ける。挙句の果てには、当のできる人はパンクしてしまい、体を壊したり退職してしまう。後には何も残らない。そもそも責任が不分明だから、できなくなっても特定の人間がとがめられることもなく、逆に何かをやり遂げても相応の報酬があるわけでもない。終身雇用を前提とし、人に依存するが故の経営リスクである。ここでもやはり、企業とその構成要素たる人とが、それぞれモジュール化していない。
地方は国に依存してきた。地域の活性化は国からの交付金依存・公共事業依存だった。誰も見に来ない博物館を作り、一日に数台しか車の通らない豪勢な橋を作った。親方に依存するばかりか、自立するための手段に投資してこなかった。それゆえ、国全体が長期的不況に陥って税収が減り、地方の面倒なぞ見ていられなくなると、ただ右往左往して国に泣きすがるしかなくなる。
最近の例を挙げれば、サプライチェーンの崩壊という事象がある。小売は単線的で融通の利かないサプライチェーンに依存してきた。震災でそのチェーンが壊れれば、途端にモノの流れがストップする。硬直的であるがゆえに、代替・交換ができない。
このような国家体制では、一部のひび割れや不具合が全体に響く。どこかを直そうとすれば、結局全てを直さざるを得ないモノリシックな構造なのだ。
大局的に考えれば、このモノリシック構造を脱するにはモジュール化を進めるしかない。あらゆるレベル・分野において、構成要素が可能なかぎり単体のモジュールとして存立し、任意の相手と手をつなぎうる構造が必要なのだ。地方という単位でも、個人という単位でも、サプライチェーンという単位でも同じである。最終的に、国家とはモジュール群の階層構造としてとらえられるだろう。そして政府もまたコアをなすモジュール(Linuxでいえばカーネル)である。モノリシック国家との決定的な違いは、どの粒度で考えても、確固たる「個」が存在するという点である。しかしこの「個」は他の「個」と接続しうる無数の接続子を持っている。必要であれば、いつでも他の「個」とつながって、一回り大きなモジュールとして機能する。
この変化が最も早く表れるのは、恐らく個人のレベルであると思う。言うまでなく、単位が大きくなればなるほど、多様な利害関係が生じてモジュールの切り分けがしにくくなるからだ(実際、地方分権の議論などは十年以上前からあるが、一向に進む気配がない)。また、手段さえ開かれていれば、単位が小さいほど自立しやすくなる。個々のモジュールは小さいが、他のモジュールと接続することで、多機能化や柔軟な変化が可能になる。自立的であると同時に、他の個とつながりうること。世の中をどのレベルで捉えるにせよ、今後のサバイバルにはその二つが必要になってくると思う。
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ジーンズ市場の過去・現在・未来
BOBSON倒産の報。学生の頃、ジーンズに興味があった頃は、そこそこの種類のジーンズを販売していた覚えがある。
「BOBSON」で有名なジーンズメーカー株式会社ボブソン 民事再生法の適用を申請 負債7億3400万円
http://www.tdb.co.jp/tosan/syosai/3465.html
で、何となく気になって昨今のジーンズ市場についてさくっと調べてみた。結論から申し上げると、かなり厳しい状況である模様。
webを渉猟してみると、「日本アパレル工業技術研究会」なるサイトがあり、衣料需給や販売に関する統計が掲載されていた。下記リンク先にある「衣類の購入価格」および「家計最終消費支出の構成」を参照してみる(出展は前者が内閣府、後者が日本衣料管理協会)。
http://www.jat-ra.com/statistics.html
まず「衣類の購入価格」の方で家計が衣料に費やす支出額のトレンドを追ってみると、平成8年度(1996年度)から一貫して減少傾向にあり、平成16年度(2004年度)には10兆円を切って約9700億円になっている。これは支出額が最も大きかった平成7年度(1995年度)の金額(約19兆円)の半分強である。平成18〜19年度は一時もりかえすものの、21年度には9000億円弱代にまで減少している。いうまでも無く、長引く不況による買い控えと、新興国への工場移転による衣料のコスト削減と低価格化が原因だろう。当然、ジーンズ業界もこの影響を免れない。
統計の一部に一貫性が無いけれども、「家計最終消費支出の構成」の方には1999年〜2009年までの衣料購入価格に関する統計が、衣料種別ごとに記されている。また、父・母・学生ごとの属性による分類がなされている。通時的に統計を眺めると、やはり購入価格帯がいずれの属性においても下降しつつあることが読み取れる。
たとえば、「父」の統計を見ると、99〜00頃は大体3,000-10,000円までの価格帯におさまり、かつ7,000円以上の比率が比較的大きい。しかし2001年以降は次第に下位の価格帯の比率が増加し始めている。04,06年の数値を見ると10,000-20,000円の価格帯も微増して、二極化する傾向があるものの、主流は1,000-5,000の価格帯だ。かつてはリーバイス・エドウィン等をはいていた層の多くが、ユニクロなどの低価格ジーンズに移行してきたことが推察できる。
「母」の統計には、一貫して堅実な消費傾向が見られる(=しっかり者の母)。しかし、00〜02頃は7,000-10,000の層が2割を超えていたのに、03年以降はずっと1割台にとどまっている。特に大きな変化は09年で、同年の1,000-5,000円の層が7割を超える。これは、ユニクロが990円ジーンズなど超低価格商品を市場に投入したことが大きな原因だろう。女性はファッションにこだわるから衣服に妥協しないかと思いきや、価格弾力性が一番大きいのは家計をあずかる女性の需要であるようだ。
さすがに最もファッションに気を使うであろう「学生」は、04年頃までは比較的高価なジーンズ(7,000円以上)を購入する層が多い。しかし、この層も05年以降は減少し始め、代わって5,000円以下の層が全体の5割を超えるようになる。面白いのは、学生に関しても二極化現象が見られることだ。06年以降、低価格を志向する層が5〜6割に増加する一方、7,000円以上の商品を買う層も3割程度を維持している。しかし、この高額購入層も08年以降は2割台に減少する。
これらの消費性向を勘案すると、いずれの属性においても多くの人がジーンズを購入する価格帯は、5,000円以下ということになろう。この価格帯にマッチするのは、ユニクロやH&Mなどのファストファッションだ。また、ジーンズは素材が非常に丈夫で、着古した物に価値が出るという特性がある。そして、大消費地である大阪にはアメリカ村が、東京には原宿の古着店がある。ファッションに敏感な若者は、ユニクロが嫌でも古着という選択肢がある。一方、DIESELなどの高級ブランドは、一本数万円のジーンズを販売している。価格と価値を考えた場合、両者の中間に位置する商品は、ちょうど中途半端なのかも知れない。
リーバイスやエドウィンといった有名ブランドでも、現在のプライシング(8,000〜10,000円代)を維持し続けるのは難しいのではないだろうか。また、ブランド力の弱いドメスティックな会社は、BOBSONのように経営危機に立たされるだろう。ジーンズは世代を問わず通年着られる衣類だが、既存の戦術(「50X」などの型展開や「○○ウォッシュ」などの色展開)だけでは縮小する国内市場で生き残っていけまい。やはり若い世代が増加する新広告市場に注力せざるを得ないのではないだろうか。各社の生き残り策に注視したい。
NH @ an ordinal jeanist
P.S.
上掲の統計には独身男女の項目が入っていない。可処分所得の比較的多いであろう20代後半〜30代独身男女の統計を加えると、分析結果も多少は変わってくるかも知れない。
「BOBSON」で有名なジーンズメーカー株式会社ボブソン 民事再生法の適用を申請 負債7億3400万円
http://www.tdb.co.jp/tosan/syosai/3465.html
で、何となく気になって昨今のジーンズ市場についてさくっと調べてみた。結論から申し上げると、かなり厳しい状況である模様。
webを渉猟してみると、「日本アパレル工業技術研究会」なるサイトがあり、衣料需給や販売に関する統計が掲載されていた。下記リンク先にある「衣類の購入価格」および「家計最終消費支出の構成」を参照してみる(出展は前者が内閣府、後者が日本衣料管理協会)。
http://www.jat-ra.com/statistics.html
まず「衣類の購入価格」の方で家計が衣料に費やす支出額のトレンドを追ってみると、平成8年度(1996年度)から一貫して減少傾向にあり、平成16年度(2004年度)には10兆円を切って約9700億円になっている。これは支出額が最も大きかった平成7年度(1995年度)の金額(約19兆円)の半分強である。平成18〜19年度は一時もりかえすものの、21年度には9000億円弱代にまで減少している。いうまでも無く、長引く不況による買い控えと、新興国への工場移転による衣料のコスト削減と低価格化が原因だろう。当然、ジーンズ業界もこの影響を免れない。
統計の一部に一貫性が無いけれども、「家計最終消費支出の構成」の方には1999年〜2009年までの衣料購入価格に関する統計が、衣料種別ごとに記されている。また、父・母・学生ごとの属性による分類がなされている。通時的に統計を眺めると、やはり購入価格帯がいずれの属性においても下降しつつあることが読み取れる。
たとえば、「父」の統計を見ると、99〜00頃は大体3,000-10,000円までの価格帯におさまり、かつ7,000円以上の比率が比較的大きい。しかし2001年以降は次第に下位の価格帯の比率が増加し始めている。04,06年の数値を見ると10,000-20,000円の価格帯も微増して、二極化する傾向があるものの、主流は1,000-5,000の価格帯だ。かつてはリーバイス・エドウィン等をはいていた層の多くが、ユニクロなどの低価格ジーンズに移行してきたことが推察できる。
「母」の統計には、一貫して堅実な消費傾向が見られる(=しっかり者の母)。しかし、00〜02頃は7,000-10,000の層が2割を超えていたのに、03年以降はずっと1割台にとどまっている。特に大きな変化は09年で、同年の1,000-5,000円の層が7割を超える。これは、ユニクロが990円ジーンズなど超低価格商品を市場に投入したことが大きな原因だろう。女性はファッションにこだわるから衣服に妥協しないかと思いきや、価格弾力性が一番大きいのは家計をあずかる女性の需要であるようだ。
さすがに最もファッションに気を使うであろう「学生」は、04年頃までは比較的高価なジーンズ(7,000円以上)を購入する層が多い。しかし、この層も05年以降は減少し始め、代わって5,000円以下の層が全体の5割を超えるようになる。面白いのは、学生に関しても二極化現象が見られることだ。06年以降、低価格を志向する層が5〜6割に増加する一方、7,000円以上の商品を買う層も3割程度を維持している。しかし、この高額購入層も08年以降は2割台に減少する。
これらの消費性向を勘案すると、いずれの属性においても多くの人がジーンズを購入する価格帯は、5,000円以下ということになろう。この価格帯にマッチするのは、ユニクロやH&Mなどのファストファッションだ。また、ジーンズは素材が非常に丈夫で、着古した物に価値が出るという特性がある。そして、大消費地である大阪にはアメリカ村が、東京には原宿の古着店がある。ファッションに敏感な若者は、ユニクロが嫌でも古着という選択肢がある。一方、DIESELなどの高級ブランドは、一本数万円のジーンズを販売している。価格と価値を考えた場合、両者の中間に位置する商品は、ちょうど中途半端なのかも知れない。
リーバイスやエドウィンといった有名ブランドでも、現在のプライシング(8,000〜10,000円代)を維持し続けるのは難しいのではないだろうか。また、ブランド力の弱いドメスティックな会社は、BOBSONのように経営危機に立たされるだろう。ジーンズは世代を問わず通年着られる衣類だが、既存の戦術(「50X」などの型展開や「○○ウォッシュ」などの色展開)だけでは縮小する国内市場で生き残っていけまい。やはり若い世代が増加する新広告市場に注力せざるを得ないのではないだろうか。各社の生き残り策に注視したい。
NH @ an ordinal jeanist
P.S.
上掲の統計には独身男女の項目が入っていない。可処分所得の比較的多いであろう20代後半〜30代独身男女の統計を加えると、分析結果も多少は変わってくるかも知れない。
CD評 『Snow Borne Sorrow/Nine Horses』
冷たい情熱。理知的な狂気。内省のスピルオーバーとしての表現。枯れたナルシシズム。
そういうのは、結構好きだ。
久々に買ったCD。
David Sylvianを知ったのは確か「Blemish」だったと思う。タワレコで見かけたが、特に気にもかけず通り過ぎてしまった記憶がある。その後、last.fmで色々な楽曲を渉猟する中で出会ったのが、上掲のアルバムである。発売がBlemishの一年前だから、Davidがソロ活動を再開する直前のアルバムになるのだろう。
捨て曲が一切無い。ベスト版かと思うほど個々の曲の完成度が高く、耳に残る。かといって曲調がバラバラなわけではなく、同一のテーマを巡るヴァリアントのようにも聴こえる。物々しいイントロと沈鬱なDavidのボーカルで始まる一曲目の"Wonderful World"から惹きこまれ、二曲目の"Darkest Birds"でギターが入ってくる辺りで鳥肌が立つ。最後の"The Librarian"まで、実にクールで美しい。
曲調的には最近の流行を反映してか、エレクトロニカ〜ノイズ的な要素が強いが、随所でサックスやアコースティックギターも入る。エレクトリックとアナログがスローテンポで心地よくバランスしている。
真冬の一番寒い時期、鉛色の空を眺めながら聴きたいアルバムである。断然、オススメ。
NH @ just a listener
そういうのは、結構好きだ。
久々に買ったCD。
![]() | スノー・ボーン・ソロウ (2006/02/22) ナイン・ホーセス 商品詳細を見る |
David Sylvianを知ったのは確か「Blemish」だったと思う。タワレコで見かけたが、特に気にもかけず通り過ぎてしまった記憶がある。その後、last.fmで色々な楽曲を渉猟する中で出会ったのが、上掲のアルバムである。発売がBlemishの一年前だから、Davidがソロ活動を再開する直前のアルバムになるのだろう。
捨て曲が一切無い。ベスト版かと思うほど個々の曲の完成度が高く、耳に残る。かといって曲調がバラバラなわけではなく、同一のテーマを巡るヴァリアントのようにも聴こえる。物々しいイントロと沈鬱なDavidのボーカルで始まる一曲目の"Wonderful World"から惹きこまれ、二曲目の"Darkest Birds"でギターが入ってくる辺りで鳥肌が立つ。最後の"The Librarian"まで、実にクールで美しい。
曲調的には最近の流行を反映してか、エレクトロニカ〜ノイズ的な要素が強いが、随所でサックスやアコースティックギターも入る。エレクトリックとアナログがスローテンポで心地よくバランスしている。
真冬の一番寒い時期、鉛色の空を眺めながら聴きたいアルバムである。断然、オススメ。
NH @ just a listener
映画評 『スプリング・フィーバー』
良かった。きっちり人間が描かれていた。
『スプリングフィーバー』公式サイト
http://www.uplink.co.jp/springfever/news.php
カラミの多い映画である。そもそも、のっけから男同士が逢瀬でカラミ合う。しかし、それだけではない。蠢いて、カラんで、離れる。そしてまた動き始める。描かれているのは「性」であるし、根本的には「生」であるが、決して「静」は無い。カラダもカラみ合うのだが、しかしそれ以上に激しくカラみ合い、また離れていくのは登場人物達の気持ちである。
誰しも、気持ちの良くないセックスをした経験があるだろう。時間を費やして行為を行っても、さほどの快感が襲ってこない。カラダが交じっても気持ちが交じっていないのだ。相手の気持ちが強いだけでも、その逆でもダメ。逆に、両者の気持ちの混交を如実に感じられる時にカラダも交じれば、快感でもあるし至福でもある。
劇中のジャンはポーカーフェースなキャラだが、ワンと寝ている時は本当に気持ちが良さそうにしている。しかし、ルオと交渉している最中はどうだったろうか?ワンと一緒の時ほどの快感を得られただろうか?
気持ちが強いほど、混交したときの幸福も大きくなる。男女間の恋愛は当然だが、同性愛は文化的・社会的禁忌を超えなければならぬがゆえに、なおさら感情の度合いが強くなるのだろう。男性同士ののベッドシーンが、ルオとリーのそれより濃厚に描かれるのはそのせいだろう。
メタ映画的な話をすれば、監督のロウ・イエは一時期映画制作を当局から禁じられていたという。しかし、その禁止令を超えて、この映画を作った。それだけ伝えたいという強い気持ちがあったのである。また、観客の我々も「常識」的な人々から「変態!」という謗りを(そう、丁度ジャンがリンに言われたように)受けるかも知れない。その社会的頚木を超えて映画館に赴く。その両者の気持ちが混交する瞬間が面白くないわけは無いのだ。
交じった気持ちは均衡を保とうとするが、非常に不安定だ。またいつ分かれていくかも知れない。その姿は決して整然としたものではなく、むしろいびつで荒っぽくさえあるだろう。生は最新鋭の機器では撮ってはいけない。丁度この映画のようにハンディカメラで撮るべきなのである。また、生をとりまく環境は決して穏やかではない。湿気と熱気、そして生臭さが漂って雑然としているだろう。丁度映画の舞台である南京のように。
幸福とはある種の調和かも知れない。そして、それは誰かと同衾することや3人で旅をすることで束の間得られるのかもしれない。しかし、やがてその形ははかなくも崩れていくのである。夏に開いた蓮の花もやがては散り、また蕾をつける。調和を求めるが調和にとどまってもいられない。きっと生きるとはそいういうことであり、それを受け入れることなのだ。
・・・
渋谷シネマライズでは今週17日(金)まで。是非ご観覧ください。オススメ。
シネマライズ
http://www.cinemarise.com/
NH
『スプリングフィーバー』公式サイト
http://www.uplink.co.jp/springfever/news.php
カラミの多い映画である。そもそも、のっけから男同士が逢瀬でカラミ合う。しかし、それだけではない。蠢いて、カラんで、離れる。そしてまた動き始める。描かれているのは「性」であるし、根本的には「生」であるが、決して「静」は無い。カラダもカラみ合うのだが、しかしそれ以上に激しくカラみ合い、また離れていくのは登場人物達の気持ちである。
誰しも、気持ちの良くないセックスをした経験があるだろう。時間を費やして行為を行っても、さほどの快感が襲ってこない。カラダが交じっても気持ちが交じっていないのだ。相手の気持ちが強いだけでも、その逆でもダメ。逆に、両者の気持ちの混交を如実に感じられる時にカラダも交じれば、快感でもあるし至福でもある。
劇中のジャンはポーカーフェースなキャラだが、ワンと寝ている時は本当に気持ちが良さそうにしている。しかし、ルオと交渉している最中はどうだったろうか?ワンと一緒の時ほどの快感を得られただろうか?
気持ちが強いほど、混交したときの幸福も大きくなる。男女間の恋愛は当然だが、同性愛は文化的・社会的禁忌を超えなければならぬがゆえに、なおさら感情の度合いが強くなるのだろう。男性同士ののベッドシーンが、ルオとリーのそれより濃厚に描かれるのはそのせいだろう。
メタ映画的な話をすれば、監督のロウ・イエは一時期映画制作を当局から禁じられていたという。しかし、その禁止令を超えて、この映画を作った。それだけ伝えたいという強い気持ちがあったのである。また、観客の我々も「常識」的な人々から「変態!」という謗りを(そう、丁度ジャンがリンに言われたように)受けるかも知れない。その社会的頚木を超えて映画館に赴く。その両者の気持ちが混交する瞬間が面白くないわけは無いのだ。
交じった気持ちは均衡を保とうとするが、非常に不安定だ。またいつ分かれていくかも知れない。その姿は決して整然としたものではなく、むしろいびつで荒っぽくさえあるだろう。生は最新鋭の機器では撮ってはいけない。丁度この映画のようにハンディカメラで撮るべきなのである。また、生をとりまく環境は決して穏やかではない。湿気と熱気、そして生臭さが漂って雑然としているだろう。丁度映画の舞台である南京のように。
幸福とはある種の調和かも知れない。そして、それは誰かと同衾することや3人で旅をすることで束の間得られるのかもしれない。しかし、やがてその形ははかなくも崩れていくのである。夏に開いた蓮の花もやがては散り、また蕾をつける。調和を求めるが調和にとどまってもいられない。きっと生きるとはそいういうことであり、それを受け入れることなのだ。
・・・
渋谷シネマライズでは今週17日(金)まで。是非ご観覧ください。オススメ。
シネマライズ
http://www.cinemarise.com/
NH
上海假日 vol.5
今回、趣向を変えてテーマで上海を語ってみようと思う。名づけて、「上海假日 広告/デジタルサイネージ編」である。
大都市を旅行する上での楽しみの一つは、様々な広告媒体に触れられることだ。言うまでも無く、広告というのは当地・当時の消費者にとって最もアピールするものでなければならない。広告製作者は、製品やサービスの美点がが最も良く伝わるように、色使い・字体・起用するモデルや俳優に工夫を凝らす。日本に無い製品/サービスの広告が面白いのは当然だが、もっと面白いのは日本でも売られているものの広告だ。中身は同じであっても、その国の消費者に受け入れられるように各社とも商品戦略や広告をローカライズするからである。固定化された製品とそのイメージが揺さぶられるようで、ドキドキする。広告は、旅する者の知性・好奇心・アート感覚・ビジネスセンス・俗物根性を最も良くくすぐるのである。
上海も大都市なので、街中を散策していれば戸外広告などは普通に目に入ってくる。個人的には、日本であればニッチメディアと呼ばれそうな、割とシブ目な広告が気になった。
例えば、2日目に行ったレストラン「耶里夏丽」ではこんな広告があった。洗手间(トイレ)の手洗所にある鏡を使ったデジタル・サイネージですな。

数十秒おきくらいで、鏡の周縁部に広告が次々と表示されては消えていく。鏡って絶対見るものだから広告を出す場としてはかなりいいのかも。媒体の普及率はどれほどか知りませんがね。
次はコレ、タクシー内の広告。これもデジタル・サイネージの一種だね。運転手座席のアタマの所にタッチパネルモニターがつていて、後部座席に座った人が色々なコンテンツを観られるというシロモノ。


映りが悪いけれど、一枚目は上海の名所案内みたいの。表示された地図上の各地点を指で触れると、詳細が表示される。二枚目は純粋な製品広告。日本のTOTOさんですな。この他、ANNA SUIの広告とか、ゲームコンテンツとかも入っていた。
余談。ワタシ、天津出張時にタクシーに乗ってる時、似たようなアイデアを思いついたんですよ。同乗の日本人に話したところ、「中国でそんなことしたら、せいぜい盗まれて終わりだろう」と。それは偏見に満ちた狭量なご意見。実際こうやって実用化されているんだから。現実を虚心坦懐に見つめ、それをベースにロジックで推論していけば、まだ見ぬ未来が少しだけ見えてくるということだと実感。実行していれば今頃起業家かな?そこは実行するか否かの差、である。
余談その2。TOTO製品は一部で普及しているらしい。徐家匯にある百貨店のトイレでもTOTO製品が使われていた。

水周りモノってやはり品質が重要だから、日本製品はウケるんじゃなかろうか。ただ、値段がお高いから一部でしか目にしないんだね、きっと。上掲の広告もプチ富裕層家族向けウォシュレットみたいですな。
百貨店のエレベータ横にはFocusMediaのデジタル・サイネージ。中国株好きならご存知だらう。

日本製品の広告は少なめだけれど、時々目に入る。下は、酒吧の帰り道で見つけた三得利啤酒(サントリービール)の広告。これはデジタルじゃないんだけど、電気で光る広告らしい。

日本でサントリービールの広告というと何となくオトナなイメージがするけれど、上海ではお笑いタレント(?)起用しているそうな。これなんかローカライズの好例だね。中々頑張っておられるサントリーさん。
また余談。中国の方はライトビール好きが多いらしく、サントリーのビールも軽めであった。青島ビールもかなり軽いもんね。下はコンビニで買ったビールたち。左端の雪花も上手いすよ。

最後にテレビ広告と化粧品の話。ホテルでテレビを見ていて一番頻繁に目にしたのは欧莱雅(L'OREAL)のCM。女性向け保湿クリームなぞ宣伝してた。次いで多かったのは美宝莲(MAYBELLINE)。若い子向けのクリーム「BB控」をプッシュしていた。日本でこれら外資系化粧品というと、モロ西洋人の女性が起用されたバタ臭い(死語)CMという感じだが、上海では中国人の女優/アイドルを起用していた。これまたローカライズの差異があって面白い。中国人はあくまで中国人的な美にこだわるのに対し、日本人の美の基準は西洋人ってことかい?
http://www.lorealchina.com
http://www.bb-kong.com/
L'OREALに関して興味深かったのは、男性用保湿クリームをかなり積極的に広告していた点。狭西南路駅前の百貨店ではブースを出してキャンペーンみたいのやってた。下は当のクリームのCMに起用されているイケメン俳優。

http://www.haibao.cn/article/44037.htm
こういうのが大々的に宣伝されてるってことは、メトロセクシュアルな男子も増加中ってことですかね。男性向けファッションや化粧品の市場もこれから拡大しそうな気がするな。
NH
大都市を旅行する上での楽しみの一つは、様々な広告媒体に触れられることだ。言うまでも無く、広告というのは当地・当時の消費者にとって最もアピールするものでなければならない。広告製作者は、製品やサービスの美点がが最も良く伝わるように、色使い・字体・起用するモデルや俳優に工夫を凝らす。日本に無い製品/サービスの広告が面白いのは当然だが、もっと面白いのは日本でも売られているものの広告だ。中身は同じであっても、その国の消費者に受け入れられるように各社とも商品戦略や広告をローカライズするからである。固定化された製品とそのイメージが揺さぶられるようで、ドキドキする。広告は、旅する者の知性・好奇心・アート感覚・ビジネスセンス・俗物根性を最も良くくすぐるのである。
上海も大都市なので、街中を散策していれば戸外広告などは普通に目に入ってくる。個人的には、日本であればニッチメディアと呼ばれそうな、割とシブ目な広告が気になった。
例えば、2日目に行ったレストラン「耶里夏丽」ではこんな広告があった。洗手间(トイレ)の手洗所にある鏡を使ったデジタル・サイネージですな。

数十秒おきくらいで、鏡の周縁部に広告が次々と表示されては消えていく。鏡って絶対見るものだから広告を出す場としてはかなりいいのかも。媒体の普及率はどれほどか知りませんがね。
次はコレ、タクシー内の広告。これもデジタル・サイネージの一種だね。運転手座席のアタマの所にタッチパネルモニターがつていて、後部座席に座った人が色々なコンテンツを観られるというシロモノ。


映りが悪いけれど、一枚目は上海の名所案内みたいの。表示された地図上の各地点を指で触れると、詳細が表示される。二枚目は純粋な製品広告。日本のTOTOさんですな。この他、ANNA SUIの広告とか、ゲームコンテンツとかも入っていた。
余談。ワタシ、天津出張時にタクシーに乗ってる時、似たようなアイデアを思いついたんですよ。同乗の日本人に話したところ、「中国でそんなことしたら、せいぜい盗まれて終わりだろう」と。それは偏見に満ちた狭量なご意見。実際こうやって実用化されているんだから。現実を虚心坦懐に見つめ、それをベースにロジックで推論していけば、まだ見ぬ未来が少しだけ見えてくるということだと実感。実行していれば今頃起業家かな?そこは実行するか否かの差、である。
余談その2。TOTO製品は一部で普及しているらしい。徐家匯にある百貨店のトイレでもTOTO製品が使われていた。

水周りモノってやはり品質が重要だから、日本製品はウケるんじゃなかろうか。ただ、値段がお高いから一部でしか目にしないんだね、きっと。上掲の広告もプチ富裕層家族向けウォシュレットみたいですな。
百貨店のエレベータ横にはFocusMediaのデジタル・サイネージ。中国株好きならご存知だらう。

日本製品の広告は少なめだけれど、時々目に入る。下は、酒吧の帰り道で見つけた三得利啤酒(サントリービール)の広告。これはデジタルじゃないんだけど、電気で光る広告らしい。

日本でサントリービールの広告というと何となくオトナなイメージがするけれど、上海ではお笑いタレント(?)起用しているそうな。これなんかローカライズの好例だね。中々頑張っておられるサントリーさん。
また余談。中国の方はライトビール好きが多いらしく、サントリーのビールも軽めであった。青島ビールもかなり軽いもんね。下はコンビニで買ったビールたち。左端の雪花も上手いすよ。

最後にテレビ広告と化粧品の話。ホテルでテレビを見ていて一番頻繁に目にしたのは欧莱雅(L'OREAL)のCM。女性向け保湿クリームなぞ宣伝してた。次いで多かったのは美宝莲(MAYBELLINE)。若い子向けのクリーム「BB控」をプッシュしていた。日本でこれら外資系化粧品というと、モロ西洋人の女性が起用されたバタ臭い(死語)CMという感じだが、上海では中国人の女優/アイドルを起用していた。これまたローカライズの差異があって面白い。中国人はあくまで中国人的な美にこだわるのに対し、日本人の美の基準は西洋人ってことかい?
http://www.lorealchina.com
http://www.bb-kong.com/
L'OREALに関して興味深かったのは、男性用保湿クリームをかなり積極的に広告していた点。狭西南路駅前の百貨店ではブースを出してキャンペーンみたいのやってた。下は当のクリームのCMに起用されているイケメン俳優。

http://www.haibao.cn/article/44037.htm
こういうのが大々的に宣伝されてるってことは、メトロセクシュアルな男子も増加中ってことですかね。男性向けファッションや化粧品の市場もこれから拡大しそうな気がするな。
NH





